「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」
(マタイによる福音書 5章16節)
立派なという言葉には、美しく好ましいという意味があります。
私たちは、いわゆる立派な人が目の前にいると、気後れを感じ、近寄りがたいと思ったりするものです。ですが、ここで言われている立派さは美しく好ましいものです。
私たちキリストに従う者の存在は、人を引き付けるようなものです。あまりにも高貴で、近寄りがたいというものではありません。なぜなら、私たちが見上げているイエス・キリストご自身が、そういうお方だからです。ご自分から進んで、罪人と呼ばれて社会からつまはじきにされている人の友となられたお方だからです。キリストが接触された人々の中には、心の曲がった人もいたことでしょう。しかし主は、そういう人が反発を感じるようなお方ではありませんでした。
彼らがイエス様をお迎えして盛大な宴会を催したと書いてある通りです。
では一体、イエス様のどういう姿勢が彼らの心を開いたのでしょうか。
それは、一言で言うならば、謙遜さでした。イエス様は、私たち人類を救うためにご自分のことを省みられなかったお方です。ご自分の栄光が表されることすらも求めておられなかったのです。
私たちがキリストの香りを放つ者となるために、この謙遜さに倣う者となる必要があります。
キリストの謙遜さに倣うために私たちにできることは、主の十字架の愛を日々自分のおのとして受け取り続けること以外にありません。
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