「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平和をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(イザヤ書53章5節)
聖書の中に、イエス・キリストの復活を信じようとしないトマスという弟子に対して、イエス様が、その十字架上で受けた、手とわき腹の傷跡を示される場面が出てきます。
イエス様はトマスに、「わたしの手に指をあててごらんなさい。手を出して、わたしのわき腹に入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。
トマスは、その傷跡を目にしたとたんに、「わたしの主、わたしの神」と、イエス様に対する愛の告白が、自然にその口からほとばしり出たのでした。
傷には、不思議な力があります。傷は、それに触れた者の優しさや愛、また信頼さえも引き出してしまうのです。
星野富弘さんの詩にこのような詩があります。「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる。」
傷がなければ感じることができなかったものを、傷があるゆえに感じることができたと、この若くしてケガのために手足の自由を失った人は歌っています。
傷は悪いものではなく、その人の宝であると言っているようです。
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