
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」 (伝道者の書 7章14節)
「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」という話があります。
あるお坊さんが、村の東の小山に「どんな願いでも聞く地蔵様」、西手の野原に「何も聞かぬ地蔵様」を置いて行ったそうです。
村の人たちは早速、「聞く地蔵」に色々お願いをしました。すると、これまで仲良く暮らしていた村の人たちは多くの富を求め、立派な家を求め、裕福になりましたが、その後、目ざわりな隣人の不幸をお互いが求めるようになったそうです。
とうとう貧乏人と病人の村になったところ、あるお坊さんがやってきて「聞かぬ地蔵」を拝むようにと勧めます。
そこで村の人たちが「聞かぬ地蔵」を拝み始めると、不思議なお坊さんの言った通り、村はまただんだん幸せで平和な村になったそうです。
考えさせられるお話です。
神様が即答してくださるとありがたいと思うことがよくあります。しかし、人々の求めること以上に多くの祝福を与えるために、神様は沈黙の中でいかに多くの時を私たちと共に過ごしていらっしゃることでしょうか。
神様の沈黙は、私たちを無視しているのではなく、神様のもとに私たちを導き、神様と出会い、最善の結果を与えるために備えられているのではないでしょうか。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編 46編10節)
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