「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイによる福音書 5:8)
清いという言葉には、混じり気がないという意味があります。また心は動機を指す言葉です。
つまり心の清い人というのは、動機が純粋な人のことです。自分自身を誇る気持ちや、自分の能力を示そうとする態度といったものが、行動の原理になるのではなく、常に神様の栄光が現されることを求めて行動することが出来る人のことです。
そのような人が幸いなのは、その人の内に働かれる神様の存在が示されることになるからです。
普段は目を向けることがない赤血球や白血球ですが、何かがあってその存在に気づくと、
「そんな大切な働きがあったんだ。ありがたい。」と思うわけです。
そしてそこから、人間の体をこんなにも精巧に造られた神様はすばらしいという方向に思いが向くようになることでしょう。
私たちクリスチャンの存在も、これと同じです。
人前に立って「すごい」と注目を集めるようなことをすることが、すなわちキリストを表すことにはなりません。赤血球や白血球は、人前に触れることなく血管の中を流れることによって、自分たちの働きを遂行することができます。
同じように私たちも、キリストの中に自我や利己心といったものを隠すとき、神様を表すことができるのです。私たちがそのような者になることができるのは、イエス様がそうであったように、神様の絶対的な愛を信頼することです。
日々、イエス様の十字架の愛を心に留めていきたいと思います。
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